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| 只見町 〜ただみまち〜 |
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只見町は晩秋に入り、ブナ、ナラ、カエデなど様々な落葉樹が一斉に紅葉の時期を迎えた。田子倉湖には遊覧船が浮かび、秋空を映したブルーの湖面と、山々の紅葉が鮮やかなコントラストをつくり出している。
只見町は自然美にあふれる奥まった山国だが、この地の歴史は古く、縄文時代から現代まで様々な人、物、文化が往来し、独自の文化風土を育んだ。 |
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大倉地区にある会津只見考古館には縄文・弥生時代の営みを今に伝える貴重な資料が集められ、土器、土偶、石器などの出土品のほか、竪穴式住居も復元・展示されている。
只見駅から歩いて十分ほどの山腹にある三石神社は、ご神体が小さな家ほどもある巨石で、古代信仰の面影を今なお残している。幾本もの杉の巨木を縫うように登る参道の途中には透明な清水が湧き出し、ほの暗い杉木立を透かして秋晴れに輝く山々の紅葉が間近に見える。ご神体の巨石は所々に細かな穴があり、ここに紐を結ぶと良縁が得られるという。 |
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さらに江戸時代になると只見は、会津と新潟を結ぶ「北越街道」の要所として栄えた。新潟へ向かう峠「八十里越」の入り口に当たる叶津地区には「八十里越叶津口番所」が設けられ、この地が平和な交易の場だっただけでなく、軍事・警察拠点だった一面を伝えている。当時のまま保存されている番所は、農家風の曲がり屋と武家屋敷を折衷した独特の造りで、30センチ超の柱や梁が、カヤぶき屋根をがっちりと支えている。
軍事拠点としての性格が際立ったのは戊辰戦争で、農民らも農兵として動員された。若松城が開城した慶応4年(1868年)9月22日以後も、只見をはじめ奥会津各地で戦争が続き、叶津地区では9月25日になっても戦闘が行なわれたという。
会津の友軍だった長岡藩の家老・河井継之助も長岡城落城後の同年八月、藩士・避難民らとともにこの地に退却した。継之助は到着後ほどなく没し、遺骨の一部が塩沢地区の医王寺に葬られた。現在は寺の傍らに「河井継之助記念館」が建てられ、その華やかな活躍ぶりを伝えている。一方、寺の裏手にある墓所は森閑と静まりかえり、戦禍に倒れた無数の人々が今なおつぶやいているかのように、沢の水音だけが響いている。 |
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